芸術などについて勉強した

アメリカ人フェノロサや岡倉天心の活動はめざましく、岡倉天心は東京美術学校の設立につとめ、新しい日本画を復興しました。岡倉天心はその後、日本美術院をつくり新しい日本画の創造につとめました。西洋画は、まず明治初年に工部美術学校で外国人教師が教えましたが、明治中期にフランス印象派の画風をもたらした黒田清輝らの活動によってさかんとなりました。彫刻の分野でも、伝統的な木彫と西洋の彫塑とが共存する方向へ向かいました。演劇では歌舞伎が引き続き民衆に親しまれ、河竹黙阿弥らが新しい要素をもり込みました。日清戦争前後からは新派劇とよばれる現代社会劇がうまれ、人気のある通俗小説を劇化して民衆の要望にこたえました。さらに日露戦争後には西洋の近代劇が移植され、新劇の活動が広がっていきました。音楽の分野では軍隊用に西洋音楽が輸入され、唱歌は小学校教育にとり入れられ親しまれていきました。東京音楽学校が設立され、滝廉太郎らの作曲家もあらわれました。西洋風と日本風との混在は、生活文化にもはっきりとあらわれています。都市では、官庁・会社・学校などで西洋風の衣食住が採用され、しだいに一般家庭にも広まっていきました。交通機関も鉄道に続いて鉄道馬車、さらに電車や自動車も走るようになりました。しかし、都市でも洋服はほとんど男性に限られ、食物や住居も伝統的な様式のままでした。

伝統文学などについて勉強した

日清戦争前後には、人間の感情面を重んじるロマン主義がさかんになり北村透谷の評論、明星派の与謝野晶子の情熱的な短歌、森鴎外や樋口一葉の抒情味あふれる小説などが発表されました。また、正岡子規は俳句の革新と万葉調の和歌の復興につとめ、伝統文学の革新として注目されました。日露戦争前後になると、フランス・ロシアの自然主義文学の影響により、社会の暗い現実をえぐり出そうとする自然主義が流行し、国木田独歩・島崎藤村らが出ました。しかし明治末期には、自然主義とは異なって知識人の内面生活を国家・社会との関係でじっくりと見つめようとする夏目漱石らの作品もあらわれました。このような反自然主義の作品は、大正時代にかけてさまざまな形であらわれてくることになります。また、1870年、最初の日刊紙である「横浜毎日新聞」が発行されて以降、多くの新聞や雑誌が発行されて世論に影響をおよぼしました。美術・芸能では伝統芸術と新しく導入された西欧の芸術とが、互いに影響しあいながら並びたち、近代化・大衆化の動きが進んでいきました。美術では文明開化の風潮のなかで、伝統的な日本画や木彫などが一時かえり見られなくなりましたが、1880年代に国粋主義が勢いを得ると伝統美術復興の動きがおこりました。

>>伝統芸能復興の動きとともに起こるKarareの口コミ復活